「だまされた」と主張する人ばかりの敗戦直後の日本の言論空間。
私は映画が好きですが、洋画ばかり見ていました。
そんな私ですが、ある時、「うわー、おもしろい!」と思う邦画に出会いました。
人物を大胆にアップにしたり、今まで聞いたことのないようなテンポの音楽に合わせたカメラの動き。
コミカルであり、シニカルでもある。
とにかく、今まで私が知っていた邦画とはまったく異なるものに感じました。
その邦画のタイトルは『マルサの女』。
国税局査察部と脱税者との戦いを描いた映画で、監督・脚本は伊丹十三氏。
第11回日本アカデミー賞(1988年)において、最優秀作品賞をはじめ主要部門をほぼ独占しました。
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書名:『伊丹万作エッセイ集』
著者:伊丹万作(著)
出版:筑摩書房(2010.06)
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著者は日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。
戦後日本の言論空間を「おいおい、何言っちゃんだよ」と痛烈に、明るく批判します。
著者の長男は映画監督・俳優の伊丹十三氏の父であり、長女はノーベル賞作家大江健三郎夫人の大江ゆかり、孫は作曲家の大江光、俳優の池内万作、池内万平です。
敗戦国、日本。
日本の言論空間では「軍に騙された」という意見がかなり広がっていたようです。
中学の時の日本史の教師も、「日本軍に騙されて日本は戦争を引き起こした」と教えていました。
<本文引用>------------
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぽつぽつわからなくなってくる。多くの人はだましたもだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。(本文より)
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「だまされた」と主張する人がいる一方、どれだけ探しても「だました」と主張する人が永遠に見つからない。
考えてみたらおかしな話です。
これ、以前読んだ『吉村昭が伝えたかったこと』でも同じようなお話が出てきました。
「私はだまされた」という主張は「私は被害者だ」という主張とも言えます。
こうした主張を著者は厳しく批判します。
<本文引用>------------
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志のからもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。(本文より)
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私は宅建の試験で勉強した民法。
民法では契約に関し、詐欺や脅迫による契約行為の取り消しについて規定しています。
民法では、詐欺や強迫によって行われた契約は取り消すことが可能です。
でも、少し違いがあります。
その一つが第三者対抗要件。
詐欺によって契約が取り消された場合、その取り消しの効果は契約当事者間では有効ですが、第三者が善意(詐欺の事実を知らない)の場合には、第三者に対抗することができません。
一方、脅迫による契約も同様に取り消しが可能ですが、詐欺の場合と異なり、脅迫による取り消しは善意の第三者にも対抗できます(民法第96条第4項)。このため、脅迫があった場合には、その取り消しは第三者が善意・悪意を問わず、全ての第三者に対して対抗可能です。
<本文引用>------------
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も領国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。(本文より)
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「私はだまされた!」を主張するって、「俺はだませる人間ですよ~」と同じようなものかもしれませんね。
◆頭の中でシンクロした他の完読作品
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■読んだきっかけ:YouTubeチャンネル「D会議室」「終戦特集」佐々木俊尚のニッポン解体神話【第五回】
■読んで知ったこと:「だまされた」と主張する人ばかりだった敗戦直後の日本の言論空間。
■今度読みたくなった作品:『時代劇が前衛だった-牧野省三、衣笠貞之助、伊藤大輔、伊丹万作、山中貞雄』古賀重樹
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