社会の分断はポピュリズムの培地。
政治の世界で目につく機会が増えた言葉に「ポピュリズム」というものがあります。
日本では「大衆迎合」や「扇動政治」などと呼ぶこともあります。
Wikipediaによれば「ポピュリズム(英: populism)とは、有権者を「エリート」と「大衆」に分けた上で、2つを対立する集団と位置づけ、「大衆」の権利こそ尊重されるべきだと主張する政治思想をいう。」のだそうです。
日本のテレビニュースを見ていると、論調は大抵「日本の政府や官僚や大企業は“悪”。中小企業や貧しい人は“善”」という論調。
でも、銀行でいわゆる“どぶ板営業”をやっていた私。
平気で嘘をつく中小企業やお金のない人を山ほど見てきましたので、この論調にはかなり違和感があります。
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書名:『ポピュリズムとは何か』
著者:ヤン=ヴェルナー・ミュラー(著)、板橋拓己(訳)
出版:岩波書店(2017.04)
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著者はプリンストン大学政治学部教授。
「ポピュリズムとは何か?」という問いへの解を提示します。
原題は『What is POPULISM ?』。
日本語に訳すと、邦題通り『ポピュリズムとは何か』ですね。
権力を批判するのはポピュリズムなのか?
著者は明確に「No」と言います。
そして、ポピュリストを解説すための素材として、トランプ前大統領を取り上げます。
<本文引用>------------
ドナルド・トランプの大統領就任演説の起草者が、ポピュリズムの教科書に一次資料を提供することを意図していたならば、その目論見は見事に成功したと結論せざるをえない。演説を聴いた者が、いままさに合衆国は外部の権力(a foreign power)から解放されたのだと考えたとしても無理はない。この大統領は、ワシントンを占拠していた憎むべき異質な「エスタブリッシュメント」が打ち破られ、人民が再び統治するのだと宣言したのである。
トランプがしたように、あらゆるポピュリストは、「人民(the people)」と、利己的で腐敗したエリートを対置する。しかし、権力者を批判する者が、みなポピュリストというわけではない。真にボピュリストを特徴づけるのは――これが本書の主たる論点だが――、自分たちが、それも自分たちだけが真正な人民を代表するという彼らの主張である。(本文より)
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こちら側と相手側の対決軸を明らかにし、「我こそは真正な人民」と主張。
ということは自然に「そちら側は不正な人民」ということになるんですね。
<本文引用>------------
トランプの解釈によると、いまや[真の人民を代表する]自分が行政部を支配するから、人民が政府を支配することになる。そうした解釈は、いかなる反対派も正統ではないということを含意する。つまり、トランプに反対する者は、人民に反対しているとされるのだ。これは、ウゴ・チャベス[ベネズエラの大統領、在任一九九九~二〇一三年]や、非リベラルを公言するハンガリーの首相ヴィクトル・オルバーン、トルコの大統領レジェップ・タイイップ・エルドアンらでお馴染みとなった、きわめて権威主義的なパターンである。トランプは、民主主義にとって自らがいかに危険であるかを、世界に向けてこれ以上ないほど明瞭に示したのである。(本文より)
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ポピュリズム政治家の厄介な点として、政治的な責任を負わないということを挙げています。
なぜ、政治的な責任を負わないなどということができるのか?
<本文引用>------------
チャベスは、「チャベスとともに人民が統治する」というスローガンが大好きだった。皮肉なことに、この人民とひとりの忠実な代表者との同一視が意味するのは、究極的にポピュリストは、いかなる政治的責任も負わないということである。トランプは、自分が人民の真正な意志の単なる執行者に過ぎないと言い張っている。同様にエルドアンは、二〇一六年夏のクーデタ[失敗]の余波のなか、死刑制度を再導入するという彼の計画への批判に対して、次のように応じた。「重要なのは、わたしの人民が何を言うかだ」と。実のところ、そもそも「彼の人民」が言うべきことを彼は語ったのであり、彼が人民の声の唯一正統な解釈者であり続けるのだ。必然的に、異論は非民主主義的なものとされる。そして、あらゆる抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)は、民主主義のもとでの権力分立制ではまったく常態のものだが、ポピュリストの手にかかると、人民の意志の実現を阻む障害物とされてしまうのである。(本文より)
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なんか、厄介ですね。
民主主義社会では選挙で選ばれないと権力者にはなれない。
そこで、選挙民が喜びそうなことを言うことになります。
消えた年金問題を始め、官僚への不信が高まり、その官僚をコントロール出来ない政府。
総理大臣も毎年変わる。
そんな状況を受けて、「国民のための政治をしていない!」と追求し続けた民主党(現在の立憲民主党)。
メディアによる官僚と政府への攻撃という追い風を受けで、政権を獲得します。
で、政権を取って何ができたのかはご存じの通し。
<本文引用>------------
そして、彼らが権力を獲得したら、誰が彼らに反対することなどできるのだろうか。この点は、ポピュリストによる政治的代表の理解のきわめて重要な側面に関わってくる。 つまり、彼らは、人民の意志の民主主義的な代表という考えを支持しているかのように見えるけれども、実際には「真の人民」(たとえば、ジョージ・ウォレスが愛用した「真のアメリカ人」といった観念)という象徴的な(symbolic)代表に依拠しているのである。(本文より)
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自由主義の社会には沢山の人がいます。
正直、一方から見たら「何バカなこと言ってんだ!」なんて思う集団もいます。
2022年9月、「米軍普天間基地の辺野古移設に反対する保守・革新の共同体」こと「オール沖縄」が推す玉城デニー氏が再選を果たしました。
ただ、圧倒的な勝利というほどもの無かったような・・・。
「オール沖縄」。
「沖縄の全て(オール)」というには盛りすぎのように思えます。
そんな厄介なポピュリズムとの付き合い方を、著者は提言します。
<本文引用>------------
六、ポピュリストは、彼らの実態(「リベラリズム」だけでなく)民主主義にとって真の脅威だということ――ゆえに批判されるべきである。しかしこれは、彼らを政治的議論に引き込むべきではないということを意味しない。ポピュリストと話すことは、ポピュリストのように話すことと同じではない。彼らが提起した問題を、彼らの問題の組み立て方を受け入れることなく、真剣に受け止めることは可能である。(本文より)
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「あいつらはポピュリズムだから、相手にしないようにしよう!」はダメなんですね。
それこそ、分断が固定化し、ポピュリズムの培地とも言える「そちら側/こちら側」が固定化することになってしまうんですね。
先日読んだ『全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義』に登場した「mob(モッブ)」。
共通の情緒的な衝動の影響を受けた、空間を共有した不安定な集合的行為で、「群集」よりも、一定の目的を志向する概念。
Wikipediaでは「名詞として使われた場合の意味の一つは、暴徒、大衆、野次馬の群衆などであり、そのイメージは、指導者が存在しない、無秩序に集まった、騒がしい群衆である。」とされています。
『全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義』では、「mob(モッブ)」は単独では勢いは増さないものの、指導者が「mob(モッブ)」を煽り、そこで増した「mob(モッブ)」の勢いが指導者の勢いになることを指摘しています。
2022年の後半は、ワイドショーでは連日、物価上昇と旧統一教会が取り上げられています。
確かにどちらも庶民にとっては問題であり、関心も高いです。
地上波を中心としたメディアが煽り、盛り上がっている世論の不満を今度や立憲民主党をはじめとする野党がその勢いによって、政府や自民党を責め立てます。
でも、自民党が政権を手放せば、物価上昇って止まるのか?
「世論は我々の味方」と思ったのか、2022年10月19日の参議院予算委員会では、立憲民主党の打越さく良氏は山際大志郎経済再生担当相に対し、旧統一教会の信者かどうかをただしました。
「あなたの信仰を今ここで教えてください」
こんなことを面接などでやったら、かなり問題なのは一般社会常識ではないかと。
でも、立憲民主党って、メディアが世論を煽り、世論の怒りがあれば、憲法で保障されている「内心の自由」にも踏み込めると踏んだのでしょうか?
格差、差別、信仰。
世の中には、世論の考えが大きく2つに分かれるネタは沢山あります。
こうした人を分断に誘導しやすいネタを盛んに取り上げて、「そちら側/こちら側」を固定化させ、「我々国民はぁ!」「我々県民はぁ!」「我々市民はぁ!」などと言っている人がいたら要注意ですね。
◆頭の中でシンクロした他の完読作品
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■読んだきっかけ:パオロ・マッツァリーノのTwitter @paolomazzarino
■読んで知ったこと:社会の分断はポピュリズムの培地。
■今度読みたくなった作品:『西洋の自死 :移民・アイデンティティ・イスラム』ダグラス・マレー(著)、町田敦夫(訳)
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