同じ情報を受けても、その後の行動は同じになるとは限らない。
以前読んだ『アウシュヴィッツ潜入記』。
ヴィトルト・ピレツキ。
アウシュヴィッツの内部で何が行われているかを知り、世界に広めるために自らアウシュヴィッツに入り、そこから脱出した人物です。
こんな人物がいたことに驚きました。
――――――――――――
書名:『アウシュヴィッツ脱出: 命を賭けて世界に真実を伝えた男』
著者:ジョナサン・フリードランド(著)、羽田詩津子(訳)
出版:NHK出版(2025.04)
――――――――――――
著者は英国ガーディアン紙コラムニスト、同紙元ワシントン特派員、BBCラジオ4で歴史番組のプレゼンター。
アウシュビッツから決死の覚悟で脱出し、それをその惨状を世界に伝えようとした人物を紹介します。
本作は翻訳もので原題は『THE ESCAPE ARTIST The Man Who Broke Out of Auschwitz to Warn the World by Jonathan Freedland』。
直訳すると『脱出アーティスト アウシュビッツから脱走し世界に警告を発した男』。
<本文引用>------------
「死の工場」の存在を信じるのはたやすくなかった。人間を殺すことを目的として建設され、二十四時間稼働する施設。こんな場所が存在したことはなかった。人間の経験の埒外(らちがい)にあり、想像力では及ばないものだった。
ヴァルターは十八歳だった。彼は頭がよく、適応力も高かったが、いまや理解を超えたものと対峙していた。(本文より)
------------------------
「死の工場」であるアウシュビッツへの移送の目的については、ナチスも必死に隠していたことがわかります。
<本文引用>------------
その長い十か月間、ヴァルターはトランクや死体を運んでプラットフォームを走り回るうちに、ナチスが移送者に最後まで運命を知らせないように躍起になっている理由がじょじょにわかってきた。
殺人システムがスムーズに機能することが必要だったからだ。それには移送者の落ち着きと、少なくとも指示に従順に従うことが求められた。しばしば時間におされていて、次の移送列車が線路を近づいてくる中で、パニックや、悪ければ暴動のせいで遅延を生じさせるわけにいかなかった。ただし、時間が迫っているときは、ステッキを一振りする直接的な手段で静かにさせた。鉄条網の方に走っていったり、ナチスに飛びかかったりしても、最終的には制圧されるだろう。それでも荷下ろし場には千人以上、ナチスの十倍のユダヤ人がいて、待ち受けているものを知ったら、機関銃に砂を投げつけるかもしれない。少しでも反抗されたら時間をとられる。
ヴァルターはそのことを改めて明確に悟った。この呪われた場所にナチスが建設した死の工場は、ひとつの基本原則にのっとっていた。アウシュヴィッツに来る人々は行き先も目的も知らされない。その前提で、すべてのシステムが機能していた。(本文より)
------------------------
まず、収容所を脱出したヴァルター。
しかし、途中、ナチスにつかまり、再度連行される危機に直面します。
<本文引用>------------
たんに面倒だったのかもしれない。卑しいユダヤ人を連行するよりも、殴りつけて放置する方が楽だという、単純できまぐれな理由だったのだろう。だが、そのおかげでヴァルターの命は助かった。
これまでも、親衛隊員の気まぐれで命が助かったことは何度かあった。ある意味で、アウシュヴィッツ=ビルケナウでまだ息をしているすべてのユダヤ人は、同じようにして命をつないできたのだ。荷下ろし場で、親衛隊員の指が右か左に振られることで選別されることから始まり、カポが一発のパンチで殺せるか賭けをするために囚人を選ぶときや、衰弱のために殺すと医師が診断するときなど、何百もの気まぐれをくぐり抜けて。生か死かは直感によって瞬時に決定され、簡単にひっくり返ってしまう。(本文より)
------------------------
こうした偶然に助けられ、更に脱出劇は続きます。
私はまだ観ていませんが、2023年のアメリカ合衆国・イギリス・ポーランド共同製作の歴史・ドラマ映画に『関心領域』という作品があります。。
「関心領域」とは、第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所を取り囲む約40平方キロメートルの地域を指し、ナチスの収容所関係者が「理想の生活」を送るために設けられた区域のことです。
<本文引用>------------
できるだけ目立たないように歩き続けた。全身がまだこわばり、ぬかるんだ土地で歩みが遅くなった。夜中の二時頃、荒れ地を横断して、収容所に近づいてこようとする者への警告板のところまで来た。「警告! ここはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所である。この土地にいる者は警告なく撃たれる!」
長い時間がかかったが、ようやく収容所を囲む広大な「関心領域」のはずれまでたどり着いたのだった。つかのまとはいえ、達成感を味わった。一九四四年四月十日、二人はこれまでユダヤ人が誰もできなかったことをやり遂げた。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から脱出したのだ。(本文より)
------------------------
ようやくヴァルターは「関心領域」を越えることに成功します。
やがて、ヴァルターの記憶は「ヴルバ=ヴェツラー報告書」としてまとめられます。
では、これを知ったユダヤ人社会はどういう行動にうでたのか。
<本文引用>------------
カストネルは五月二日にようやくクルメイと会い、キシュタルツァを二日前に出発した列車について、アウシュヴィッツに向かったのかと問いただした。千八百人のユダヤ人を乗せた、ハンガリーからの初の移送列車だった。
クルメイは否定し、ドイツのヴァルトゼーの収容所に運ばれ、農場労働者になると答えた。
カストネルはそれが嘘だとわかっていた。ヴァルトゼーに収容所はなかった。カストネルは駆け引きをやめるように言い、それがきっかけで激論になった。こうして、二人はクルメイが「第三帝国の秘密」と称する協定を結んだ。
まもなく協定の内容が明確になった。ハンガリーのユダヤ人全員の救出という要求に対してナチスが応じたのは、六百人のユダヤ人の出国許可証というささやかなものだった。アイヒマンは追加でカストネルの故郷の町コロジュヴァールから数百人に出国許可を与え、合計で千人になった。そこに二百人近い「卓越した」ユダヤ人が加わり、人数はさらに増えた。結果的に、千六百八十四人がのちに“ルドルフ・カストナーの列車”と呼ばれる列車で、安全なスイスへ送られた。
見返りにナチスが求めたのは金だった。ユダヤ人救出委員会はカストネルの列車の乗客一人あたり千ドルを支払い、合計百六十八万四千ドルを現金と貴重品で渡した。金品よりも重要な問題は、ユダヤ人コミュニティが今後の移送の手助けをすると約束したことだった。アイヒマンは 「第二のワルシャワ」は望んでいない、と断言した。一年前にワルシャワのゲットーで起きたようなレジスタンスをハンガリーで見たくはない、という意味だ。ナチスはカストネルに沈黙を求めた。(本文より)
------------------------
こうした取引、協定があったんですね。
<本文引用>------------
カストネルはヴルバ=ヴェツラー報告書を自分の胸にしまい、限られた人々にしか知らせなかった。同胞のユダヤ人に警告を発することもなかった。真実を知らされないまま、ハンガリーのユダヤ人はおとなしく「死への列車」に乗りこんだのだ。
カストネルはアウシュヴィッツ・レポートを隠蔽しただけではなく、「再定住」したと思わせるために、アウシュヴィッツに到着した人々に偽りの手紙を強制的に書かせた。評議会のメンバーはユダヤ人社会をだますことはやめるように言ったが、彼はナチスから送られた五百枚の葉書を配達させた。
六月末、ヴルバ=ヴェツラー報告書がスイスで公表されると、カストネルはスイスの連絡係に 「ヴァルトゼー」の消印つきの何千通もの葉書が届き、ユダヤ人移送者たちの元気な様子が書かれていた、と報告した。これはヴルバ=ヴェツラー報告書によってカストネルがアウシュヴィッツは「死の工場」だと知ってから、およそ二か月後のことだった。アイヒマン自身からユダヤ人はアウシュヴィッツのガス室で殺されている、とすでに聞いていた。さらに六月二十四日、スイスのマスコミがアウシュヴィッツ・レポートについて配信した日にも、カストネルはハンガリーから移送されたユダヤ人たちは無事だという嘘を広め、ルディとヨゼフの証言を否定していた。ナチスに隠蔽工作を命じられたとしても、同罪だった。(本文より)
------------------------
グループのリーダーが「ヴルバ=ヴェツラー報告書」を隠す一方、それを知った人間が周囲に直接伝えるといった行動も紹介しています。
では、それを知った人物はどんな行動をとったのか?
<本文引用>------------
クラインは通りの向かいで開業しているリューマチ専門医の叔父に会いにいき、報告書の内容を話したが、叔父の反応は意外なものだった。腹を立て、男を殴りつけたのだ。「叔父の顔は真っ赤だった。彼は頭を振り、声を荒らげた。“どうしておまえはそんな馬鹿なことを信じられるんだ? ありえない”と」
クラインは別の親戚や友人を訪ね、報告書の内容を伝えた。まもなく、ある傾向がわかった。若者は報告書を信じ、移送をまぬがれる計画を立てはじめた。しかし叔父のような中年世代には家族がいて、仕事や財産もあり、失うものが多すぎた。だから耳にしたことを信じようとしないのだ。クライン自身は駅に連れていかれ、そこで家畜用貨車が待っているのを見たときに脱走した。頭の中で報告書の内容が甦り、撃たれる危険を冒してでも逃げようと決意したのだ。(本文より)
------------------------
なんか、これって、今の状況とあんまり変わっていないように思えました。
なお、本作ではヴァルターの他にもアウシュヴィッツの惨状を世界に知らせようとした人物がいたことも取り上げています。
<本文引用>------------
ギルバートの著書が刊行されてから二十年ほどたって、新しい研究書が出版された。一九四二年からアウシュヴィッツとその機能については、ポーランド亡命政府に知らされていたという。収容所からの非ユダヤ人脱走者を含むポーランド地下組織を通じて、情報がもたらされたのだ。なかには一九四二年六月にユダヤ人殺戮に関する報告をしたスタニスワフ・ヤステルや、レジスタンス活動家のヴィトルド・ピレツキもいた。ピレツキは一九四三年四月の脱走前に、ユダヤ人殺戮についての情報を送り、それはポーランド亡命政府の上層部にも届いていた。(本文より)
------------------------
以前読んだ『アウシュヴィッツ潜入記』のピレツキですね。
◆頭の中でシンクロした他の完読作品
『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義 ―ポーランドにおける虐殺事件を糾明する』
『予言がはずれるとき ―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』
――――――――――――
■読んだきっかけ:図書館
■読んで知ったこと:同じ情報を受けても、その後の行動は同じとは限らない。
■今度読みたくなった作品:『ゲットーの娘たち: ナチスに抵抗したユダヤ人女性の知られざる歴史』ジュディ・バタリオン
――――――――――――

アウシュヴィッツ脱出 命を賭けて世界に真実を伝えた男 - ジョナサン・フリードランド, 羽田 詩津子







