『朝日新聞の中国侵略』

ホワイト・プロパガンダ、ブラック・プロパガンダ

戦争になると新聞の発行部数が増えると言われています。 
戦況や最新のニュースを知りたいという国民の強い需要が生まれるためです。 
また、政府が国民の士気を高める目的で新聞を活用する例も見られます。 
さらに、新聞社は特別版や増刊号を発行することもあります。 
こうした状況が重なり合うことで、発行部数の増加につながると考えられています。 
ただし、現代ではSNSやインターネットが主要な情報源となる傾向が強く、新聞の役割は限定的になりつつあると言えるでしょう。

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書名:『朝日新聞の中国侵略』
著者:山本武利(著)
出版:文藝春秋(2011.02)
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著者はマスコミ史、情報史を専門とする早稲田大学政治経済学術院教授、早稲田大学20世紀メディア研究所所長、一橋大学名誉教授。
日中戦争の開戦前後に企業としての朝日新聞がとった行為を明らかにします。

日本ABC協会。
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この協会のデータは会員向けに公開されており、このデータは様々な分野で引用されています。
20246月の発行部数は


 読売新聞                    5,856,320部
 朝日新聞                    3,391,003部
  毎日新聞                   1,610,000部
  日本経済新聞(朝刊)    1,375,414部
  日本経済新聞(電子版)    971,538部
  産経新聞                 849,791部

でした。
朝日新聞の発行部数は読売新聞の半分近く、毎日新聞の発行部数は読売新聞の半分以下なんですね。

そんな朝日新聞と毎日新聞の戦前の状況です。

<本文引用>------------
朝日と毎日新聞は相手をライバルと見なし、事あるごとに対抗心をむき出しにし、相手の企画をまねることを平然と行なった。大正期では朝日が甲子園の中等学校野球大会で成功するや、毎日は選抜大会を企画した。 一方毎日が『サンデー毎日』を創刊するや、朝日は『旬刊朝日』を改題し『週刊朝日』を刊行した。毎日』(後、『華文毎日』と改題)という半月刊誌を創刊したことが、朝日の大陸進出に刺激を与えていた。(本文より)
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こんな状況だったんですね。

こうした背景を受けて朝日新聞をバックに創刊された『大陸新報』の創刊。
上海での日本語新聞として順調に発行部数を増やします。

とうぜん、当時の状況からプロパガンダに利用されます。
プロパガンダというと、政府などの機関が自分たちの都合のいい情報を流すことのイメージが強いですが、本作では少し変わったプロパガンダを紹介しています。

<本文引用>------------
プロパガンダ戦では、こんな珍妙なことも起こっていた。
1940521日付けでマニラ日本大使館の吉田丹一郎総領事から上海の三浦義秋総領事に届いた機密公文書には、『大陸新報』という名の排日新聞がマニラの郵便局の消印で、日本人や日本商社あてに郵送されているとある(アジア歴史資料センター B05014004000)。その書簡には4頁建ての331日付け夕刊の『大陸新報』が添付されていた。その日付け(発売は前日)の本物の『大陸新報』夕刊には汪兆銘政権が南京に成立した祝典記事が派手に掲載されていた。ニセの『大陸新報』夕刊は1面に軍部人事の記事や広告、2面に社説、経済記事、3面に家庭記事、4面には座談会と広告といったようにいつもと変わらぬ夕刊の構成をとっている。ふだん同紙を手にしている邦人は気楽にそれに目をやって仰天したであろう。そこに並ぶ見出しは「不安極まる邦人虹口区」、「上海不安」、「学生達の受難」といった風になっている。日本側の支配が浸透していることを賛美する日常の本物の紙面とは対照的に、日本居留民の不安を煽る記事が本物スタイルで満載である。よく見れば、第1面の上段の広告や、枠外の題字のローマ字表記は本物にはない。しかし広告は本物そのもので組み合せていた。記事の日本語能力の高さから見て、居留民はこれが日本人によって編集、配布されていて、その背後に重慶政府がいることには気がつかなかったと思われる。このニセ新聞は上海で印刷され、 上海の繁華街で無料で配られたものであろう。その新聞がマニラに大量に送られ、同地の邦人に配布されたわけである。マニラ総領事は重慶政府につながるマニラ在住の中国人を特定し、彼がその配布を支援しているとにらんでいる。マニラ在住の邦人もこの新聞の正体を知ることはなく、ただただ汪政権の前途に不安感を抱いたことであろう。(本文より)
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ニセの『大陸新報』。
普段『大陸新報』を広げては、日本人の平和で豊かな生活を伝える記事に見慣れていた読者は、さぞ驚いたんでしょうね。

プロパガンダには、「ホワイト・プロパガンダ」と「ブラック・プロパガンダ」があるんだそうです。

  プロパガンダ
   ┣━ホワイト・プロパガンダ
   ┗━ブラック・プロパガンダ

<本文引用>------------
このようなニセの『大陸新報』はまさにブラック・プロパガンダの典型である。プロパガンダは情報の送り手や意図によって、ホワイトとブラックに区別される。ホワイト・プロパガンダでは、受け手の側が送り手の正体を把握し、受け手の意図を確認できる場合が多い。一方ブラック・プロパガンダでは送り手が正体を隠し、受け手の側にニセ情報を本当だと思わせるテクニックが使われる。二セ新聞を発行する編集者や印刷人はおそらく抗日華字紙の関係者で、かれらが親しい日本人に本物らしい記事の執筆を依頼したのであろう。この新聞を街頭で手にした読者の多くはそれを本物の『大陸新報』と思って読んだことであろう。記事が真実だと思った場合には、ブラック・ブロパガンダの影響力はホワイト・プロパガンダよりもはるかに大きくなる。逆にその新聞の発行者の正体を見破る読者もいたかもしれない。そうなればブラック・プロパガンダの影響は消滅する。
上海でブラック『大陸新報』を編集、印刷、配布するだけでなく、マニラにまで送付、配布するだけの組織力を持つのは重慶国民政府が背後にいる勢力のみであった。ともかく『大陸新報』もニセ版が出るほどに認知され、抗日ジャーナリズムのブラック活動を促すだけのパワーをもつようになっていたことに注目したい。(本文より)
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ブラック・プロパガンダとして利用されたのがニセ『大陸新報』。
相手方が利用しがいのあるレベルにまで『大陸新報』は浸透していたんですね。


もちろん、ホワイト・プロバガンダとしても利用されます。
政府が新聞を使って煽り、大衆がそれに煽られて事件を起こし、その事件からニュースとなって新聞に取り上げられる。
以前読んだ『新版 メディアとテロリズム』で展開されるテロリスト、メディア、オーディエンスの3つのプレーヤーの共生関係が垣間見えます。

<本文引用>------------
新潮45+編集部編の『子供たちに残す戦争体験』という読者投稿を集めた本が1984年に出ている。その中に「辻参謀と尾坂与市社長」という文章が収録されている。筆者の浅野千代彦は『大陸新報』の若い記者であった。彼の名は巻末に掲げた社員名簿に出ている。30歳という年齢からみて、おそらく日本での記者経験がなく、現地採用された人物であろう。

昭和十八年、太平洋戦争の戦局は、日に日に形勢が悪くなっていった。連合艦隊司令長官、山本五十六大将の戦死、ガダルカナル島からの転進と称する退却、アッツ島の山崎部隊長以下全将兵二千六百名の玉砕など、悲報相次ぎ、日本人の心を暗くしていった。 にもかかわらず、中国・上海の日本人の生活は、平時とそれほど変わらない状態で、内地では想像もつかないほど恵まれたものであった。(中略)
そこに、ガダルカナル島で惨憺たる敗北を喫し、九死に一生を得て逃れてきた大本営参謀、辻政信中佐が、戦線視察と称して上海に飛来、こうした現状を見て激怒した。
辻中佐の雷名は、すでに支那派遣軍参謀時代から聞こえており、またシンガポール攻略では作戦参謀として華々しい活躍をしたことは中国人にも知られていた。日本人の間では当然 英雄視され、その身辺の清潔さと併せて猛烈な辻信者を増やし人望があった。
「ガ島より帰り、非常時局に訴える」と虹口(日本人租界)の映画館で、満員の聴衆を集め、大講演会が行なわれた。(中略)ガ島の惨状を涙をふいて語った中佐は、更に語調を強めて、「 前線にひきくらべ虹口の街にはいまだ紅燈の料亭が繁昌しており、芸者の嬌声がきこえてくる。一体、これは何事であるか!」と、痛烈な叱声を放った。(本文より)
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出ました、辻政信。
彼って、人を煽るのが天才的にうまいみたいですね、

<本文引用>------------
その論調は強烈であり、聴衆は感動した。なかでも、元映画俳優で杭州において製紙工場を経営していた浅岡信夫(戦後、参院議員)は、最前列に着席し、感激の涙にくれているのが、人目をひいた。氏は、学生相撲のチャンピオンであり、大きな体軀に、俳優らしい身振りで感動を全身で表現していた。(本文より)
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まあ、講演聞いて涙を流すので終わればいいものですが、もっと過激な行動に出る人間もいます。

<本文引用>------------
その夜、この講演に刺激された四十過ぎの鉄工場経営者が、一流料亭にガソリンを撒き放火する事件が起った。幸いにして、死傷者は出なかったものの、かなりショッキングな出来事であった。
当時、上海にある「大陸新報」という新聞社に勤務していた私は、この放火事件を取材した記者の原稿を読んだ。原稿は、放火の罪は憎んでも、辻中佐の主張に感動してやった動機は、私利私欲のない愛国心の発露であるという、犯人に好意的な内容であった。(本文より)
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ところが、こうした風潮を「大陸新報」の社長が止めようとします。

<本文引用>------------
ところが、この記事について、尾坂与市社長(元朝日新聞社会部長)は書き直しを命じた。社長の意見は「戦時中といえども、動機が良ければ何をしてもいいということでは、社会の秩序は保てない。辻さんの講演内容にいささかでも、思慮の足りない者を過激な行動に走らせるところがあったとしたら、指導的立場にある辻中佐の責任は大きい」というもので、強大な軍を背景に、泣く子も黙るといわれた辻中佐の講演を批判した。
この尾坂意見に対して、記者の一人が、「ひょっとしたら日本は負けるかも知れないという重大な危機である。最前線では死に直面している者がいるというのに、一方で酒池肉林に酔い痴れて、火事場泥棒のように金儲けに抜目のない輩がいるなんて、絶対に黙視できない。生やさしい手段ではゆるふんの日本人に活を入れることは出来ないではないか。この放火こそ、非常時に警鐘を鳴らす役割を果したのではなかろうか」と反論した。
「とんでもないことを言うな。放火の罪は、刑法に死刑又ハ無期、モシクハ五年以上ノ懲役二処スとある。この度は延焼がなくて済んだが、仮に大火になり、焼死者を出した場合を考えてみろ」尾坂社長は語気を荒げた。
料亭の存在が、戦争遂行にそんなに支障があるというなら、軍の力をもってすれば、料亭の一つや二つ潰すことは容易な筈である。 辻中佐が、この放火犯に火をつけろと命じたわけでもないので、当然、言い分はあるだろうが、「あの講演をきいて、怒りが体内をかけめぐり、そのやり場がなくて、正義の刃をふるった」と犯人がいったのもまた事実である。
尾坂社長はいった。「この戦争を始めたのは、軍人パワーに押しきられた弱腰の政府だが、終りを決める鍵を握っているのは軍人である。辻参謀にはこの戦争の終末は予測がついている筈である。ガ島を見て来た辻さんの講演を聞けば、勝利のメドはどこにもない。こんな上海の居留民を集めて、非常時を訴えるより、この戦争を、いまだ傷が深くならないうちに終止するため、命がけの彼の蛮勇を期待したいところだ。幸いに中国戦線では負けていないのだから、いまこの有利な点を活用してやれば出来ないことはないだろう・・・・・」(本文より)
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そして記者は社長の後押しを受け、記事を書きます。
では、実際にはどんな記事が新聞に掲載されたのか?

<本文引用>------------
記者は尾坂社長の意を体して、忠実に書いた。ただし、新聞が配達されて開いてみると、 尾坂イズムは全くなく、形態化された内容で、わずか記事の底流に鉄工場主の浅薄なヒロイズムを否定する文章が貫かれていただけであった。
私は新聞の無力をしみじみと感じた。そして、辻参謀のこれまでの自信に満ちた言動に、ある種のオールマイティの期待感を抱いていたのが、あわれにも幻想にすぎなかったことを知った。(本文より)
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そんな「大陸新報」を通じで大陸でもビジネスを展開してきた朝日新聞。
戦後はどういう行動に出たのか?

<本文引用>------------
朝日はGHQへ提出した弁明書で自己の戦争責任を軽減すべく、ぎりぎりまで太平洋戦争回避のための努力を行った最後の新聞であったと述べた(1948年4月5日提出「朝日新聞調査表」RG331Box8602Folder25)、

日本の最大の悲劇である太平洋戦争、その阻止に朝日新聞は全力を試みた。真珠湾寄襲の日、十二月八日附の朝日の紙面を見れば、誰でもが朝日の平和的態度を諒解するであろう。
が、戦争の進展とともに政府の言論統制は日とともに強化された。その間の朝日の態度は今日から見て些かあきたらぬものがあろうが、あの時、政府の命に反し独自の立場をとつたとすれば、すでに朝日の存立は許されなかったのである。朝日新聞が他の諸新聞に比較して最も遅れて政府に追従したことは幾分その罪を軽くするものであろう。(本文より)
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保身、いや、保社精神満載ですね。

<本文引用>------------
しかし朝日は支那事変以降もっとも戦争を煽った新聞であったことはたしかである。この『社史』が強調する香港での「和平工作」の節には、「武漢攻略に報道陣二千人」という見出しの記事が挿入されているし、その前節は朝日だけで総数138人もの特派員を派遣した軍の中国攻略への過剰ともいえる熱狂的な報道ぶりを扱った「戦局の進展で特派員增派」(第2節)である。朝日は太平洋戦争でライバル紙以上に派手に戦況を報道したとの世評があった。作家の田辺聖子は『週刊文春』の連載エッセイの中で当時の雰囲気をよく伝えている。

朝日新聞は、戦時中の記事、毎日より勇ましゅうて派手で威勢よかった。庶民は「みい、朝日読んでたら、気ィ大きゅうなる」いうたもんです。「赫々のの武勲、必死必中の体当り、敵大混乱」なんて書いて、庶民を嬉しがらせとった。毎日はわりと地味でしたな。朝日が派手で、みな朝日の記事がおもしろい、いうて人気あった。(『女のとおせんぼ』2頁)(本文より)
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こうした紙面は部数を伸ばします。

<本文引用>------------
熱狂的な戦争報道で朝日の部数は増加し、広告増収も顕著で、多額の戦況報道経費を補ってあまりある利益をあげた。
朝日は長年の読者からの軍用飛行機の献納募金(献機運動)によって陸海軍から便宜供与を与えられ、自紙の取材活動の迅速化、飛行機部門の営業化(日本最初の民間航空会社設立)に成功したが、19391220日の神尾日記にあるように、大場鎮飛行場での海軍からの建物付き2万坪の敷地の同社への供与がなされることになった(本書151頁参照)。また何人かの朝日航空部の社員が佐官待遇の嘱託となった(「現在窮之将来有望」188頁参照)。これは徴用機による軍からの収益増につながっただけではない。戦況ニュース写真、記事、特派員の輸送、物資の搬送で他紙を圧っした。(本文より)
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先ほど紹介したABC協会のデータ。
朝日新聞の発行部数は、
  202312   3,680,000部
  2024  6月  3,391,003部
  比較                -288,997部

子宮頸がんワクチン、福島原発に関する処理水、新型コロナなどなど。
私を見る限り、朝日新聞も毎日新聞もしっかり、“不安を煽る報道”をしていると思いますが、昔としがって、それだけでは発行部数は増やせないようです。


◆頭の中でシンクロした他の完読作品
『朝日新聞の中国侵略』 
『検閲官 発見されたGHQ名簿』 
『新版 メディアとテロリズム』  

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■読んだきっかけ: 『新版 メディアとテロリズム』  福田充(著)
■読んで知ったこと:ホワイト・プロパガンダ、ブラック・プロパガンダ。
■今度読みたくなった作品:『広告の社会史』山本武利(著)
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朝日新聞の中国侵略 - 山本 武利
朝日新聞の中国侵略 - 山本 武利










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