「膺懲熱(ようちょうねつ)」。
通州事件。
私がこれを知ったのはかつて放映されていたインターネット番組「虎ノ門ニュース」でした。
で、検索すると、Wikipediaがヒット。
読んでいると、身震いするような殺戮行為が淡々と記述されていました。
でも、この事件、中学の歴史の授業ではまったく見たこと聞いたことがありませんでした。
でも、この事件、高校の歴史の授業ではまったく見たこと聞いたことがありませんでした。
――――――――――――
書名:『通州事件 日中戦争泥沼化への道』
著者:広中一成(著)
出版:星海社(2016.12)
――――――――――――
著者は中国近現代史研究者。
1937年(昭和12年)7月29日に日本人・朝鮮人居留民など200人以上が虐殺された通州事件を検証します。
冒頭に著者は執筆にあたってのスタンスを明らかにします。
<本文引用>------------
日中戦争開始から約三週間後の一九三七年七月二九日。北京からほど近い通州で、日本の傀儡政権である冀東政権麾下の中国人部隊 「保安隊」が突如反乱を起こした。「通州事件」と呼ばれるこの反乱により、二二五名もの日本人居留民(うち一一一名が朝鮮人)が命を落とした。しかし、通州事件には、未だ多くの疑問が残されている。「反乱はなぜ起きたのか?」「予兆はなかったのか?」「責任は誰が取ったのか?」「事件はどう報道されたのか?」――本書では、これらの疑問に対し、数々の史料を駆使して検討を加える。事件発生から八○年が経とうとしている今だからこそ、我々は感情的で不毛な議論を排し、実証的見地からその全貌を捉え直さなければならない。(本文より)
------------------------
通州事件は、殺害された人数や虐殺の状況があまりにも凄まじく、この事件を知ろうとすると、こうした情報にどうしても引っ張られてしまいます。
著者はそうした状況を極力排し、この事件の発生前後の状況、事件後の両国の対応を冷静に検証していきます。
まず、この通州事件を取り上げようとすると、政治的な意見対立になります。
<本文引用>------------
一方、日本では、一九八九年八月、軍事史研究家の岡野篤夫が、張慶余の手記をもとに、通州事件が中国側の計画によって行われたと論じ、
中国側があまり好まないテーマは敬遠しておくということは、日中友好の為必要である、と言えば言えるのかも知れない。しかし、それでは恨をのんで犠牲となった人々の霊は浮ばれないだろう(岡野篤夫「惨・通州事件二人の立役者」、『自由』第三五四号所収)
と述べて、中国側に配慮して、通州事件を検証しようとしない日本側の研究姿勢を批判した。これに対し、ジャーナリストの本多勝一は、一九九○年九月、『朝日ジャーナル』誌上で通州事件について触れ、
日本軍は南京そのほか中国で、通州の何千倍だか見当もつかぬ殺人を犯しながら、敗戦まで(いや敗戦後も)黙りこんでいた。中国に対する巨大な加害問題を心底から具体的に清算しないでおいて、通州の「比類なき鬼畜行動」を中国人に訴えたとしたら、いかほどの説得力があるだろうか(本多勝一「貧困なる精神「ヒロシマ」は通州事件ではないか 日本人であることの重荷」、『朝日ジャーナル』一九九〇年九月号所収)
と主張し、通州事件を見直そうとする日本側の動きを牽制した。なお、本多は、一九七○年代に戦時下中国での日本軍の戦争犯罪を検証し、今日まで続く「南京大虐殺論争」の 口火を切ったことで知られる。
通州事件が戦争を経験していない戦後世代にも広く知られるようになったのは、一九九八年、漫画家の小林よしのりがベストセラーとなった『新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論』(以下、『戦争論』)で取り上げたことによる。(本文より)
------------------------
著者はどちらにも距離を置いています。
日本の「保安隊」と言いつつ、決して日本人には好意的でなかった「保安隊」。
予兆はあったようです。
<本文引用>------------
保安隊誤爆事件の混乱の残る二八日昼、ある日本居留民が、通州城内で保安隊員が車や人夫を使って自分たちの荷物を城外に運び出している光景を目撃した。
同じ頃、別の日本居留民は、保安隊員が通州守備隊兵営近くの日本居留民の家屋を調べ歩き、その家の壁にチョークで「△」や「×」の印をつけて回っている姿を見た(寺島正信「追想」、『支那駐屯歩兵第二聯隊誌』所収)。日本居留民の一部は、いつもとは違う保安隊員の不審な行動に得もいえぬ不安を覚え、その日の夕方頃から守備隊兵営や通州城外に避難を始めた。(本文より)
------------------------
通州事件は「中国人が日本人を虐殺した」という話になります。
ですが、実際には「中国人が日本人と朝鮮人を虐殺したが、中国人によって助けられた日本人もいた」だったようです。
<本文引用>------------
このとき、浜口茂子も保安隊に銃剣で背中を刺され、傷が肺にまで達した。しかし、幸いにも安田正子とともに一命をとりとめた。結局、応接室にいた一〇人のうち、生き残ったのはこの二人だけであった(浜口良二は冀東政権政庁で死亡)。
保安隊が安田公館から去ったあと、浜口茂子とともに屋外に逃げた安田正子は、通州城内をさまよっているうちに、「漸く親切な家主の支那人の家に行き、奥の一室にかくまって貰ひ不安の二夜を過ごし」(『読売新聞』一九三七年八月五日朝刊)た。
村尾、浜口、安田のケースは、いずれも通州の中国人住民に匿われて助かっていた。通州事件は、通州にいたすべての中国人が日本居留民の殺害に係わったと想像しがちだが、事件を起こしたのはあくまでも保安隊であり、通州の中国人住民までも日本居留民の殺害 に加わっていたわけでないことは留意しておく必要がある。(本文より)
------------------------
事件処理では、中国側(冀東政権)が日本に謝罪し、遺族に賠償することが決まります。
<本文引用>------------
冀東政権が再建されたことを受けて、森島は冀東政権側と通州事件の責任問題について協議を進めた。そして、一九三七年一二月二四日、北京日本大使館で森島と池宗墨は書簡を取り交わし、次の三つの条件を冀東政権側がすべて受け入れることで通州事件の責任問題を「解決」させた。
その三つの条件とは、一点目に、冀東政権から日本政府に対し、通州事件を発生させたたことについての責任を認め、正式に謝罪 すること。二点目に、冀東政権から通州事件の日本側犠牲者遺族などに対し、弔慰金(ちょういきん)(物損被害の賠償金と負傷者本人への見舞金も含む)総額一二〇万円(現在の貨幣価値に換算すると約三〇億円。以下同じ)を支払うこと。三点目に、通州城内に日本側が通州事件の犠牲者を追悼する慰霊塔を建設する際の用地を冀東政権側が無償で提供すること(「冀東政府池長官より森島参事官書」、同右所収)、であった。(本文より)
------------------------
そして、財政難の冀東政権が解散すると、その債務は中華民国臨時政府に引き継がれます。
<本文引用>------------
一方、通州事件の被害者遺族に対する弔慰金は、再建中の冀東政権が財政難に陥っていたため、一括で支払うことができず、一回目に四○万円(約一〇億円)、二回目に八〇万円(約二〇億円)と分割払いされることになった。
冀東政権は通州事件から約半年後の一九三八年一月末、日本軍占領下の北京に成立した傀儡政権、中華民国臨時政府に合流して解散した。はたして、冀東政権は解散するまでに予定額の弔慰金を用意することができたのだろうか。そして、弔慰金は通州事件の被害者遺族に支払われたのか。支払われたとしたら、その金額はひとりいったいいくらであったのか。(本文より)
------------------------
賠償金額を見ると、日本人と朝鮮人に差があることが分かります。
<本文引用>------------
図表7は、通州事件の被害者遺族に支払われた弔慰金の総額を示したものである。これを見ると、弔慰金を受け取ることになっていた通州事件の犠牲者遺族および負傷者計二五六人のうち、日本人一六一人に九二万九八四一円(約二三億円)、朝鮮人九五人に二 三万七三七一円(約六億円)の総額一一六万七二一二円がそれぞれ支払われていた。この総額は冀東政権が支払いを約束していた弔慰金の額とほぼ同じであった。
二回目の弔慰金約八〇万円を支払ったのは、冀東政権ではなく、その後継の中華民国臨時政府であった。臨時政府は、冀東政権を合併する際、冀東政権がそれまで成立させた条約や、政権運営で生じた負債をすべて継承した(『冀東政権から中華新政権へ。』)そのなかには、かつて森島と池宗墨が交わした通州事件の賠償責任をめぐる取り決めも含まれていた。
ひとり当たりの弔慰金の平均額を見ると、日本人が約五七七〇円(約一四四〇万円)に対し、朝鮮人が約二五〇〇円(約六二五万円)と日本人の半分以下となっていた。ちなみに、弔慰金の最高額は日本人が二万一〇五〇円(約五二六〇万円)、朝鮮人が八二六〇円(約二〇六〇万円)であった。
通州事件の被害者遺族に対する弔慰金の分配方法をめぐり、日本側でどのような議論が なされたのかはわからない。そのため、被害者遺族という点では同じであるにも拘わらず、なぜ日本人と朝鮮人で弔慰金の額にこれほど差が生じたのかは明らかでない。しかし、この事例から、当時「皇国臣民」として天皇のもとで日本人と対等に扱われているはずであった朝鮮人は、実際には不当な差別を受けていたことがわかる。(本文より)
------------------------
「膺懲熱(ようちょうねつ)」
「膺懲熱」は、日本において明治時代末期から昭和初期にかけて使われた言葉で、他国の侵略や不当な行為に対して、日本が報復や懲罰を行うという情熱や強い意志を表す言葉。当時の時代背景を反映していて、国民感情や政治的な動きに大きく関わっていたよ。
<本文引用>------------
これまでの研究で明らかになったとおり、通州事件の新聞報道が日本人の中国膺懲熱を煽ったことから、報道写真を使った新聞班による国内向けの反中プロパガンダも、一定程度の効果があったと考えられる。
しかし、日本人のなかには、中国人の残虐さを強調する通州事件の報道を冷静な目で見ていた者も存在した。たとえば、女性運動家の神近市子(かみちかいちこ)は、八月七日、『読売新聞』朝刊に寄稿した「通州事件について」のなかで、通州事件で日本居留民が殺害されたことは悲憤に堪えないが、事件で「助かった居留民のなかには中国人住民に救われたという「美談」がいくつもあり、「又支那市民の美談をきくと一服の涼味に心が洗はれて、失望するにはまだ早いといふ気持ちを起させらるのである」と、反中感情の高まる日本の世論に一石を投じた。
一方、外務省情報部による国外向けの反中プロパガンダはどうであったか。一九三八年三月、外務省文化情報局が日本在住の外国人記者を招いて行った「北支・満洲国視察旅行」で、通州を訪れた外国人記者らは、通州事件の現場を視察したあと、異口同音に日本側が「宣伝をより能率的に行つたなら、通州事変の一事をもつてしても、世界に瀰漫(びまん)する支那側製造の反日デマを覆がへすに充分であつたらう」(文化情報局編『外国新聞記者北支・滿洲国視察旅行報告書』)と語った。
この発言は、外務省情報部による国外に向けた反中プロパガンダが、必ずしも成果をあげていなかったことを示唆していた。(本文より)
------------------------
日本軍はこの通州事件を国際プロパガンダに利用しようとしましたが、なんともうまくは行かなかったようです。
<本文引用>------------
通州事件が日本の主要各紙で報じられると、日本国民は事件の動向に関心を向けた。日本軍は外務省とともに、国民政府の宣伝工作に対抗するため、報道機関を統制して、国内外に向けて、通州事件を反中プロパガンダの道具とした。
日本国内では、各紙が扇情的な見出しや凄惨な現場を写した報道写真を添えて通州事件を大々的に伝え、日本国民の反中感情に火をつけた。これ以後、八年にわたる日中戦争を続けさせた戦争支持の日本国民の世論は、通州事件を境に揺るぎないものになった。日本 は自らの意思で日中戦争を泥沼化させた。
そして、通州事件が起きてから時が過ぎても、日本では通州事件の犠牲者を弔う追悼式典の様子などの記事が新聞や雑誌に掲載され、慰霊という形で、通州事件が人々の記憶のなかに残り続けた。(本文より)
------------------------
通州事件の報道は、日本国内の日本人に対しての中国膺懲熱の高揚には寄与したようですね。
なかなか冷静に注視するのが難しい通州事件。
本作はその通州事件を冷静な気持ちで見つめ直すことに寄与してくれそうです。
◆頭の中でシンクロした他の完読作品
――――――――――――
■読んだきっかけ:YouTube「国際政治ch」「現代中国は嫌いでも、中国史は大好きな日本人」安田峰俊×広中一成×会田大輔「現代中国は嫌いでも、中国史は大好きな日本人」
■読んで知ったこと:「膺懲熱(ようちょうねつ)」。
■今度読みたくなった作品:『朝日新聞の中国侵略』山本武利
――――――――――――

通州事件 日中戦争泥沼化への道 (星海社新書 102) - 広中 一成






この記事へのコメント