『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心』

「吝嗇(りんしょく)」という言葉。

元々、読書好きな私。
でも、読むジャンルは年代や生活環境によっていろいろ変遷しています。
ジャンルには何かの作品をきっかけにハマりだします。
そんな“ハマリ本”。
古典・文学では、『徒然草』と『田舎教師』。
ビジネスでは『問題発見プロフェッショナル』と『ロジカル・ライティング』。
そして、ドキュメンタリージャンルでは『戦前の少年犯罪』『「昔はよかった」と言うけれど』
今回取り上げるのは、その『戦前の少年犯罪』 の著者の最新作です。

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書名:『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心』
著者:管賀江留郎
出版: 洋泉社(2016.05)
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著者は「少年犯罪データベース」の主催者。
丹念に過去の新聞や統計データを読みふけっているそうです。

本作では、過去の冤罪事件を中心に、なぜ人が冤罪という誤った判断を行っていくかを解説しています。


ちなみに、この「少年犯罪データベース」のサイト。
面白いです。
事件事故が起きるたびに年配者のよく言うセリフ
「今の若い人間は・・・」
を、気持ちいいくらい粉砕してくれます。

こうしたスタンス、本作でも触れています。

<本文引用>------------------------
やたらと何にでも因果関係を見出だす人間の本性のために、「戦前は貧しかった」程度のとりあえず手近にある乏しいデータだけで勝手な因果関係をでっち上げて固執、それ以外の命題を排除してしまうことになる。
果たして、実際に戦前の犯罪統計を見てみると、 金のための殺人は殺人全体の五パーセント程度にしか過ぎないのである。見事なる、幻想と現実との混同だ。(本文より)
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いまでも
「昔はみんな貧しかったので、食うに困ってやむなく犯罪を犯した。今のような快楽殺人はない」
なんて言っているの人、いますよね。


本作のタイトルは『・・・・正しい心』。
“道徳”、“冤罪”、“虐殺”、“正しい心”。
どう考えても、繋がりようもないキーワードが、本作ではしっかりと繋がっています。


“冤罪”があるわけですから、そこには、まずは“事件”が存在します。
本作で主に取り上げられるのは2つの事件「浜松事件」と「二俣事件」。
私の出身は静岡県ですが、こんなすごい事件があったことは全く知りませんでした。
「この地区の出身だから・・・」
「この地区に何年住んでいるんだから・・・」
「この地区を知っている」
は、まったく別物だということを改めて思い知らされます。


本作は14章から構成されており、1章から12章ではそれぞれ、歴史的事実を丹念に追いかけています。

見事解決された「浜松事件」。
そして、最終的に冤罪が確定した「二俣事件」。
事件に係わる刑事や鑑識といった警察関係者。
内務省と司法省。
法医学の二人の博士。
さまざまは意見が交錯します。


冤罪の最初には犯人の逮捕があります。
その逮捕した刑事が紅林刑事。
この刑事はのちに数々の過去の誤認逮捕が明らかにされ、「名刑事」から一転、「冤罪マシーン」に転落します。

ただ、この著者。
単純に
「この刑事が悪い奴だ!こいつのせいだ!」
という主張にまとめていません。

この部分がまさにタイトルとつながります。
「過去のデータを丹念に追う」という著者のスタンスが見事に貫かれていますね。

<本文引用>------------------------
科学を発展させた人間の因果関係の推論能力が、じつは人を罰するために備わった能力であるかもしれないのであるが、能力以前にどうしてもそこに因果を見出ださないと落ち着かない人間の本性は、やはり人を罰するために備わった可能性がある。そのために、自分の推論能力がおよばない領域にまで因果をでっち上げて安心しようとするのだ。人間の本性は、冤罪と最初から深く絡み合っているのである。
頭の中で考えた幾何学的抽象的な美しさを持つ<正しい計画>に固執して国を混乱に陥れる者がいるのも、単純な因果関係をでっち上げて囚われる人間の本性のためである。この人間が進化過程で身に着けた<認知バイアス>、つまり認識の歪みのために目の前の現実が見えなくなってしまうからだ。(本文より)
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事件や事故に触れると、“正義感(絶対的な正義という意味ではなく)”に突き動かされて“発言”したり、“行動”に出たりすることがあります。

この
“正義感”→“発言”+“行動”
という、行動パターンがかなり危険だということが思い知らされます。

<本文引用>------------------------
自然科学や社会科学も、往々にして同じ間違いに踏み込んでしまうが、互いの批判によって是正する仕組みもそれなりにあるので軌道修正することができる。
民主制も同様である。
<衆愚政治> というのを、 ひとりの先導でみんなが一方向に突き進んでしまう状況と、みんながばらばらの方向を向いて何も決めることができない状況という、対極を指すことがあるようだが、破滅を避けるには真に<愚か>なのはどちらなのか、 改めて考えてみる必要がある。 とくに、国家のような万が一にも失敗が赦されない巨大組織を運営する場合に於いて。(本文より)
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こうした危う行動パターンが人類を生き延び、発展させ、一方で、その危うさを、一見、まどろっこしく思える“対話”という手法を使いながら、それでも、よりよく進んでいこうとする人々の“平和的な進歩”が見えてきます。


「神の見えざる手」。
経済を少しでも勉強したことがあると聞いたことがあると思います。
アダム・スミスの『国富論』ですね。
このアダム・スミスが『国富論』を出す前に、『道徳感情論』という本を書いていたことを初めて知りました。

「経済学者が道徳を?これってい、ひょっとしたら行動経済学のはしり?」
経済の古典とも言われる『国富論』の著者アダム・スミスが、最初から経済行動学を予感させてくれるような著書を表していたとしたら、興味深いです。

これは次回の読書候補です。

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■読んだきっかけ:Amazonアフィリエイト
■読んで知ったこと:「吝嗇(りんしょく)」という言葉。
■今度読みたくなったもの:アダム・スミス『道徳感情論』
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